講演 「障害者運動の⽔脈をたどる」 登壇者 荒井裕樹(二松学舎大学) ナビゲーター 村田淳(京都大学) なぜ「日本文学者」が「障害」を? 荒井 皆さんはじめまして。荒井と申します。二松学舎大学の文学部で教鞭をとっている日本文学者です。私の名前を初めて聞く方が多いと思います。なぜ文学をやっている人間が障害の問題を語るのか。そうしたことも含めて今日はお話しします。 私自身は、戦後日本の障害者運動史であるとか、障害者の自己表現活動、あるいは優生思想に関わる問題を研究したり、支援してきた人間です。 おそらくこの場にいらっしゃる多くの方々は、障害学生がどのように教育現場に入っていけるのか、障害者差別解消法(以下、差別解消法)というものをどういった形で教育現場に根付かせていけば良いのかといったことに興味・関心があるのではないかと思います。 今日私が皆さんにお話しするのは、約半世紀ぐらい前の障害者運動の歴史や理念についてです。なので、皆さんが興味・関心をもっておられることと若干ずれるように思われるかもしれません。ですが、実は無関係ではなく根っこのところでつながっているのだ、というお話をしたいと思います。 大学院生時代、私はハンセン病療養所での文学活動について研究をしていました。私がフィールドワークを始めた頃は戦前・戦中の療養所を知っている方々が結構いらっしゃって、お話を聞くのがとても面白かったんです。そうした昔話を聞いたり、あるいはそうした方々がやってきた文学活動の歴史などを知って、隔離された人々や虐げられた人々の文化や文学活動に興味をもつようになりました。 戦後の障害者運動にも、文学を中心としたサークル運動のようなものが存在していました。私はそこにも関心をもつようになり、障害者団体の人たちと過ごしたり、取材をしたりといったことが重なって、現在のような研究に至ります。 表現が難しいのですが、vulnerableな状態にある人たちの自己表現の歴史や活動に関心をもっているということです。vulnerableって日本語に訳しにくいですね。「社会的弱者」というのも違う気がするし、「ある種の脆弱性を抱えた人たち」という言い方もあまりしっくりこないのですが、とにかく、隔離をされたり差別をされたり、迫害をされた人たちの自己表現の歴史に関心をもっています。 ここで私から皆さんに問いかけたいのですが、障害者が書いた文学作品ってどの学問領域の対象になると思いますか?文学研究の現場にいる人間からすると、文学研究というのは基本的にプロの作家が書いたものを対象にします。一方、障害者のことを主に扱うのは社会福祉学だと思うのですが、社会福祉学は基本的に文学を対象にはしません。 そうすると、障害者の書いた文学は文学研究でも社会福祉学でも研究の対象にならない。じゃあどこが研究するんですか?という話になりますね。こういう研究の「谷間」みたいな問題についても、これまで問題提起してきたつもりでおります。 水脈をたどる 荒井 「障害者運動の水脈をたどる」という変なタイトルをつけました。「水脈」という表現にピンとこない方も多いと思うので、少し説明をします。 ある概念には公的な誕生があります。例えば、インクルーシブ教育。教科書を見るとだいたいサマランカ宣言が出てくるわけですね。あるいは、ノーマライゼーションについて調べると、だいたいバンク・ミケルセンが出てきます。 でも、当たり前ですけど、インクルーシブ教育に通じるような主義主張、あるいはそういったものが必要だという考え方はサマランカ宣言より前からあるわけです。公的な誕生以前からそれに類する議論や主張は存在しているんです。そういったものは唯一の起源を確定するのが難しいので、さまざまな団体や個人が主張をしてきたことを、一つひとつ丁寧に確認していく作業が必要ではないかと私は考えています。 つまり、ある概念が公的に誕生する前の、人々が声を上げていたところに着目したい。そうした水脈をたどっていくようなことをしたいと思っています。 少し例を挙げてお話しします。いま、「障害」の表記にはいろいろなものがあります。皆さんのご所属の組織で、この「がい」の字をどのように表記するか、機関決定されているところがあれば手を挙げていただいてもよろしいですか。 (ちらほら手が挙がる) 結構いらっしゃるんですね。ちなみに村田さんの所属の組織ではどうですか。 村田 漢字の「害」です。学内の人からもひらがなの方が良さそうだから変えた方がいいんじゃないかと言われたことがありますが、これでいきますということにしています。 荒井 以前、私が講演した大学では「しょうがい」というふうにすべてひらがなで表記していました。 表記の一つひとつにもやはり水脈があるはずなんです。なんとなく障害の「がい」をひらがなにしておくと、ポリティカルコレクトネスであるみたいなことで表記を変えてしまうところもあるのですが、もともとどういう人たちがどういう思いでこの表記を望んだのか、そういったことも知っておく必要があると思います。 一例ですが、石へんの「碍」を主張した人のなかにはこういった意見がありました。 「障害の「害」の字を「碍」にするという提案がされたのも40年近くも前のことになる。東京青い芝の会のメンバーの寺田純一さんが、障害の害の字を「碍」と書いてきたときは、「なるほど!」と思った。私たちが「害」ではなく、社会の側の壁を意味する「碍」だというのだ。」(安積遊歩『このからだが平和をつくる――ケアから始まる変革』大月書店、2022年、9頁) ここに出てくる東京青い芝の会の寺田純一さんが、障害の「害」の字を石へんの「碍」として使ったということです。 寺田純一さんは、日本の障害者の自立生活運動の屋台骨みたいな方ですが、実は科学にとても造詣が深い。国会図書館の検索システムで「寺田純一」と打つと、アメリカのSF作家、生化学者であるアイザック・アシモフの翻訳書が出てきます。訳者は同姓同名の別人じゃなくて、この方です。就学免除で義務教育を受けていないのですが、独学で勉強したんですね。そうした科学者としての素養から、ニュートラルな表現として、障害の「碍」の字が出てきたのではないかと思います。 「碍」という漢字は、戦前は普通に使われておりましたが、戦後の国語改革で常用漢字から除外されました。いまは「碍子」という絶縁体などを表す言葉として使われているぐらいかもしれません。ちなみに「障碍」は、仏教のなかでは「しょうげ」と読んで、仏道の差し障りを意味します。 いま例示した文章を書いた安積遊歩さんも、日本にピアカウンセリングをもち込んだり、1994年にカイロで講演をしたことがきっかけで優生保護法の見直しが始まったという、障害者運動のなかでは大変有名な方です。 水脈の具体例の二つ目は、日本の神話に出てくる水蛭子(ひるこ)です。実はこの水蛭子が脳性マヒ児ではないかという話があります。 「仰光通信」といって、いまの都立光明学園の前身にあたる東京市立光明学校という、日本で初めての公立肢体不自由児学校の同窓会誌のなかにこういう記述があります。 「ある日何気なく古事記を見てゐると八尋殿(やひろどの)の所に『御子水蛭子を生みたまいき、此の御子は芦船に入れて流しやりたまひき』と書いてある。へんに思って日本書紀と比べて見ると日本書紀には三つになっても歩けないと書いてある。これを読んで僕等と同じ病気はこのころ既にあったのかと思ふと水蛭子が懐しくなった。」 (石橋玲児「水蛭子」『仰光通信』1946年11月、15号、3頁) この石橋玲児さんは、後でお話しする青い芝の会の初期メンバーです。重度の脳性マヒのある方なのですが、1950年代に障害者殺しをテーマにした小説を書いた人でもあります。 古事記や日本書紀は読むのが結構大変なのですが、石橋さんは読めていたんですね。石橋さんが神話に詳しい理由はたぶん二つくらいあります。一つは戦前の日本では国家のアイデンティティを神話に求めたので(皇国史観)、古事記や日本書紀を読むような教育が行われていたということ。もう一つは、この光明学校というところが大正デモクラシーの影響もあって教養教育に力を入れていたということ。当時の教育を知る人の話によると、古典文学の授業などもかなり本格的で高度なものが行われていたようです。 それにしても、水蛭子を脳性マヒ者の祖先だって読み替えるような発想力やイメージ力がすごいなと思うんです。こういった文章リテラシーを備えた人たちが戦後の障害者運動の火種をつくったんです。 以上、なんとなく「水脈」のイメージというものが伝わったでしょうか。 「障害者運動」という水脈 荒井 ここからは主に戦後の障害者運動、特に身体障害者による運動の議論を紹介していきたいと思います。 戦後の障害者運動は国立療養所の人権闘争から始まります。この時期は福祉施策の黎明期といわれ、福祉三法が成立したりしました。運動のなかでも日本国憲法の基本的人権や生存権が主たる争点となりました。 (校正者注:以下、講演スライド資料8頁から抜粋した説明図) ●福祉三法の成立 旧⽣活保護法(1946)児童福祉法(1947)⾝体障害者福祉法(1949)●国⽴療養所での⼈権闘争の勃発 ⽇本患者同盟結成(1948)→朝⽇訴訟提訴(1957) 全国国⽴らい療養所患者協議会(1951)→らい予防法闘争(1953) (校正者注:図ここまで) いまだに話題になる生活保護の扶養義務確認も、1957年の朝日訴訟ですでに問題になっています。それから半世紀以上経ちましたが、いまだに私たちはこの問題を解決できずにいます。 次に、高度経済成長期になると、福祉施策の拡充を求める運動が盛んになります。そのなかに重症心身障害児の問題に取り組む人たちがいました。障害児とともに生きる親たちです。子どもたちが安心して生きていける入居施設をつくってほしいと訴え、国家の施策として大規模入居施設を設置していく「コロニー構想」のようなものが出てきます。 ところが1970年代に入ると障害者運動が大きく転換していきます。障害者本人による差別糾弾運動が登場するんですね。 それまでの障害者運動はどちらかというと、「恵まれないかわいそうな人たちをいかに助けてあげるか」といったものでした。運動の主体も障害者の家族や福祉・医療の専門家が中心で、運動も福祉に関わる施設や政策を求める陳情が主でした。それが70年代に入ると、反差別を訴える障害当事者たちが登場してくるのです。 その代表的な団体の一つが、日本脳性マヒ者協会青い芝の会でした。この人たちは、陳情ではなく、差別をやめろと声を上げ、70〜80年代の障害者解放運動に多大な影響を及ぼします。横田弘や横塚晃一といった運動の牽引者が登場したり、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)が結成されたりするなど、日本各地に障害者解放運動が広がっていきます。 全障連が訴えた有名なスローガンに、「障害からの解放ではなく、障害者差別からの解放」というものがあります。当時は大変インパクトのあるフレーズでした。自分たちは障害を克服したいのではなく、障害者差別をなくしたいのだと訴えたのです。 この考え方は、いま私たちが「社会モデル」として捉えている障害のとらえ方の一つの水脈になるだろうと思います。 1980年代になると、社会参加や制度設計への参入が求められていきます。その大きなきっかけが国連の国際障害者年でした。そこで掲げられたフレーズが「完全参加と平等」で、多くの障害者団体が施策への参加を求めていくようになります。つまり、出来上がったものをただ受けとるのではなく、そもそもつくる過程に参加させてほしいということです。 国際障害者年の日本の推進本部の副代表だった花田春兆という、私の師匠なのですが、その人がこういうことを言っています。 「完全参加というからには、出来上がったものに対してあれこれ批判したり、注文をつけたりするだけでなく、企画・立案の段階からの参加がなくては意味がないのではないか、と私たちは考えるのです。つまり、お膳立てがすっかり出来たところへ、おみこしのように担がれてくるだけでなくて、(校正者注:ここから下線)お膳立てを考え、おみこしを作る段階から一緒に参加するのでなければ、自分たちのものにはならない(校正者注:下線ここまで)と思うからです。」 (花田春兆『参加と平等への参加』こずえ、1988、21頁) 障害者運動や障害者施策に詳しい人は、この下線部から「Nothing about us without us.(私たち抜きに私たちのことを決めるな)」というフレーズを思い出すのではないでしょうか。 「Nothing about us without us」ということばは、2004年の国際障害者デーの標語でもあり、国連の障害者権利条約の策定過程でもスローガンになっていましたが、すでに80年代から障害者たちは「Nothing about us without us」に該当するような表現をしていたんですね。これも一つの水脈にあたると思います。 現在私たちが障害者差別や共生社会を考える際に共有している概念の多くが、この70~80年代につくられたのではないか、というのが私の考えです。ひっくり返して言うと、現在議論していることの多くは、実は約半世紀ぐらい前からすでに議論されていたということです。 なぜ私がこれほど水脈をたどることにこだわるのかというと、普段学生と話したり、SNS上でのいわゆる炎上事例を見ていたりして、危機感を覚えるからです。 例えば、車椅子の人が公共交通機関から乗車拒否をされると大きな問題になります。障害者が乗ってきたら迷惑だという昔ながらの主張を繰り返す人が相変わらず多いなかで、これは差別解消法に反することだと声を上げてくれる人もいます。なかには、ずっと以前から障害者本人たちが交通アクセス権の運動をしてきたことを訴えてくれる人もいます。でも、こうした「昔から訴えてきた」という主張がとても伝わりにくい。というのも、例えば差別解消法のことをWikipediaで調べると、個々の運動については書かれていないわけです。するとSNSなどでは「サイトに記載がないから、そんな歴史など存在しない」ということになってしまう。こうした議論が多くて、大きな危機感を覚えています。 差別解消法にしてもバリアフリー法にしても、これらはいきなり空から降ってきたものではなく障害者たちが長年かけて積み上げてきたものです。ですから、消されてしまった水脈というものを、やっぱり一つひとつ知っていくことが大事なんだろうと思います。 青い芝の会の衝撃 その1:一方的な「善意」批判 荒井 ここまで水脈というものについてお話ししてきましたが、ここからは本論として、三つの論点を考えてみたいと思います。 (校正者注:以下、講演スライド資料12頁から抜粋した説明図) 70年代の障害者運動から3つの論点 論点①・・・⻘い芝の会の衝撃その1:⼀⽅的な「善意」批判 論点②・・・⻘い芝の会の衝撃その2:「優⽣思想」との闘い 論点③・・・「養護学校義務化阻⽌闘争」が投げかけたこと (校正者注:図ここまで) 先ほどご紹介した青い芝の会は、独特の「行動綱領」で有名になりました。 (校正者注:以下、講演スライド資料13頁から抜粋した説明図) 「⻘い芝の会⾏動綱領」(横⽥弘起草1970) ⼀、我らはCP者であることを⾃覚する。 ⼀、我らは強烈な⾃⼰主張を⾏う。 ⼀、我らは愛と正義を否定する。 ⼀、我らは問題解決の路を⽬指さない。 *後に「⼀、我らは健全者⽂明を否定する。」が追加 (校正者注:図ここまで) この綱領に、一方的な善意を批判するといった内容が掲げられました。それを一つ目の論点として紹介したいと思います。 村田さんは、この行動綱領をご存知でしたでしょうか。関西の方が影響力が強かったのですが。 村田 もちろんです。ただ、おいおい知っていったというのが正確な言い方です。大学では福祉を学ぶ学部に在籍していたのですが、少なくとも障害者福祉論や入門といった授業でこの話を聞いたことはありません。この話を私が知ったのは20代半ば以降だったと思います。大学を卒業していろいろな経験をしてこういうものに触れていくことになるんですけど、内容も衝撃的でしたが、それまで自分が知らなかったことにも驚きました。 荒井 青い芝の会はこの行動綱領で知られるようになったものですから、すごい過激な人たちだと思われていました。当時の養護学校の先生たちが卒業生に向けて「君たち、卒業後にどれだけ辛いことがあっても、青い芝の会だけには近付いちゃいけないよ」とアドバイスをしていたという話があったぐらいです。都市伝説かと思っていましたが、実際にそういうアドバイスをしたという養護学校の職員さんに会ったことがあるので、都市伝説というわけでもなかったんですね。 (校正者注:以下、講演スライド資料20、21頁から抜粋した説明図) ●⽇本脳性マヒ者協会「⻘い芝の会」とは ・1957年結成。障害種別の当事者団体として先駆的な存在。 ・踏まれても踏まれても負けない⻘い芝のように・・・が名の由来 ・脳性マヒ者の互助・親睦組織(将来的には政治⼒をもつことを想定)として誕⽣ ・初期の会員は光明学校(現・都⽴光明学園)の同窓⽣で、⽂芸同⼈団体「しののめ」(花⽥春兆主宰)から派⽣的に誕⽣(初期メンバーはだいたい重複) 養護学校卒業後に進路がない→孤独にならないために繫がる(「しののめ」)→同じ障害だから利害や悩みが似る→解決のために⼒を合わせよう、という流れ ●なぜ「脳性マヒ者」だったのか? ・脳性マヒ者は「⾝体障害者福祉法」との齟齬が顕在化しやすかった。 →脳性マヒ特有の障害特性が「障害等級認定」等に不利に働いた。 ・脳性マヒ者は養護学校(光明学校)でもマイノリティだった。 →当時の光明学校ではカリエスや脊椎・頸椎損傷など、「しゃべれる」「書ける」障害児が主だった。 ●議論の先駆性(「⻘い芝」「しののめ」内での議論) 1950〜60年代から、すでに下記のような問題を議論 ・障害者の結婚、性の問題(障害者同⼠の結婚など) ・親(在宅介助)への不満(障害児は親の付属物ではない) ・望ましい施設とは (校正者注:図ここまで) なかでもとくに「我らは愛と正義を否定する」というフレーズが大きな衝撃をもって受け止められました。障害者差別というのは、弱い人やかわいそうな人たちに対して、「愛と正義」が足りないから起こるんだと思われていたんですよね。それを障害者本人が否定したので、みんな驚いたわけです。 この行動綱領が生れた背景には、1970年に横浜で起きた重度の脳性マヒ児の殺害事件がありました。実の母親が殺したんですね。いわゆる育児ノイローゼだろうと思いますが、それが起きた時に地元住人たちがお母さんを許してあげてほしいと陳情活動を行ったんです。重度の障害のある子どもを抱え、お母さんは大変だったんだ。殺された子もあのまま生きていても不幸になるだけだ。だから母親を厳しく罰するべきじゃない、というわけです。 あたかも障害児を手にかけることが愛であるかのように語られる風潮に対して、青い芝の会は「そんな愛ならいらない」って言ったんです。なぜ障害者を殺すことが愛として語られるんだと。そうした文脈から出てきたのが「我らは愛と正義を否定する」でした。 こうして青い芝の会は親を批判していきました。それまで親というのは障害児の最大の味方だと思われてきたわけです。ところが障害者側から、実は親たちが自分たちのことを差別しているんだという声が上がったわけです。それが大きな衝撃をもって迎えられました。 配慮の先回り この行動綱領を起草したのが横田弘さんという方です。横田さんに関するあるエピソードを紹介します。 九龍ジョーさんという有名なライター兼編集者がいます。九龍さんは横浜市立大学に在学中、神奈川の青い芝の会の人たちと知り合って介助者を始めたようです。 余談ですが、当時、障害者が介助者を探す際、主に採られた手法が大学でのビラ撒きでした。大学でビラを撒くと、暇な大学生たちが「飯食わせてくれるなら・・・・・・」と集まったわけです。ところがいま、大学でビラを撒くのが難しくなっていますね。それに大学生も忙しい。授業や資格の勉強、バイトがあって、フラフラしている大学生がいない。だから介助者が見つかりにくくなっていて、自立生活運動をやっている障害者のあいだでも大きな問題になっています。 話を戻しますが、川崎や横浜で活動をしていると、ときどき九龍さんのような人に会います。福祉や医療の業界に勤めているわけではないけれど、昔、障害者団体でアルバイトしていましたという人に出会うんです。これはすごく大事なことだと思います。 障害の問題って、医療や福祉の専門家がやることだと思っている人があまりにも多いのですが、そうじゃないと思うんです。人生のなかで1年とか2年とか、障害のある人たちと密に関わったことのある人が社会に増えていけば、世の中は変わりますよね。おそらく青い芝の会がやりたかったのはそういうことだったんだろうと思います。 九龍ジョーさんが横田弘さんの思い出話をしています。  「横田さんとの思い出で、ずっと覚えていることがあって。事務所にいたら、横田さんが膝ですりすり歩いていたんです。すると、横田さんのちょっと先を大きな荷物が塞いでいた。邪魔だろうなと思って、それをどかしたんですね。そうしたら、「なんでどかしたんだ?」って問い詰められて。  「邪魔だと思いました」と答えたら、「ぼくはそれをどかしてなんて頼んでいない」って言うんです。たしかに、横田さんはどかしてほしいなんて一言も言わなかった。ぼくが勝手にどかしたわけです。横田さんは「なぜどかしたのか、自分の口で説明しろ」と。  そのとき、ぼくの中のなにかが試されていると感じました。横田さんたちには、そうやって他人に勝手な先回りをされることで行動を制限されてきた、という歴史があるわけです。」 (『荒井裕樹対談集 どうして、もっと怒らないの?』現代書館、2019年、32頁) 私も横田弘さんの最晩年に知り合って少しは存じ上げているのですが、こうした先回りの配慮に対して大変敏感な方でいらっしゃいました。 この先回りの配慮については、最近、合理的配慮がそうなってしまっているように思うことがあります。例えば、皆さんのご所属の組織や機関に、ある障害特性のある学生が来るとします。その時、合理的配慮の提供として何ができて何ができないのかみたいなことをいろいろとシミュレーションされると思います。それ自体は大事なことだと思いますが、そのシミュレーションが先走ってしまうと、例えば、「聴覚障害のある学生が来たらこういう支援をパッケージ化しておいて出せば良いだろう」と、待ってましたとばかりに学校側が事前に用意していたものを提供しようとするかもしれません。でもこれって、受け取る側はありがたいなと思うかもしれませんが、その反面、用意された支援の枠内で学生生活を送らなければいけないのかと感じるかもしれません。 先回りした配慮は差別解消法の求めるところともずれているように思いますが、村田さんはどう思われますか。 村田 重要なのは、障害のある学生の学ぶプロセス、手段において、合理的配慮が必ずしも必要とは言い切れないということです。障害のある学生が来たら、合理的配慮を提供しましょうと一足飛びに思考してしまいがちですが、そもそも合理的配慮のない状況で学べるのならその方が良いかもしれません。それに、何らかの配慮や支援が必ずしも合理的配慮と呼べるものでもないかもしれない。 大学がやらないといけないのは、合理的配慮をどうするかということより、障害のある人がどう学ぶかを一緒に考えることであって、合理的配慮はそのためのプロセスの一つに過ぎません。選択肢のなかに合理的配慮があるだけです。 障害のある学生が来るから合理的配慮をどうしようと考えること自体が先回りで、組織の側の前提に縛られていることの表れかなと思います。 荒井 そうなんですよね。これまで紹介してきた人たちの議論は半世紀前のものですが、いま私たちが障害学生の支援をどうしようかと考える時に、その半世紀前の議論のなかにいまなお有効なことがたくさんあるような気がするんです。その頃からすでに警鐘が鳴らされていて、考えるべきことがたくさんあったわけです。 障害とテクノロジー 荒井 行動綱領のなかでもう一つよく質問を受けるのが「我らは健全者文明を否定する」というテーゼです。この項目は横田さんの起草ではなく、後から加えられたものです。 このテーゼの背景には、青い芝の会の会員が踏切事故で命を落としたという事件があります。その方は一人で電動車椅子で外出していて、そこで事故に遭ってしまった。でも、誰か助けてくれる人が周りにいたら助かっていたかもしれません。それで、電動車椅子は障害者の味方なのか敵なのかみたいな議論になりました。 テクノロジーは障害のある人とない人をつなぐ上で欠かせないものですが、それが発達すれば障害者への対応をしなくて済むとか、ケアにかかる労力が軽く済むとか、あるいはちょっと強く言うと面倒くさい思いをしなくて済むとか、そういった動機でつくられたテクノロジーは本当に障害者の社会参加に益するんでしょうか?ちょっと難しいところがありますよね。 UDトークなんかも同じだと思います。大変精度が高く、おかげで聴覚障害のある人とない人がつながりやすくなりました。でも、これがあれば障害者への対応が軽くなるといった理由で使うことが本当に障害者の社会参加につながっていくのかということです。 健全者文明を否定するというのは、そういう意味を含んだフレーズだと私は理解しています。 青い芝の会の衝撃 その2:「優⽣思想」との闘い 荒井 二つ目の論点が、優生思想との闘いです。昨今、旧優生保護法の問題が大きく報じられています。ですので、優生思想という言葉を聞いたことのある方も多いかもしれません。 優生思想とは何かというと、優生学に由来する言葉で、障害者を悪しき存在として捉えたり忌み嫌ったりする感覚のことです。それから、能力によって人間を分別、差別する価値観などを指す場合もあり、多義的な含みをもって使われています。 1970年代以降、とくに青い芝の会の運動では、「健全者幻想」という言葉も優生学的な思想、価値観を批判する言葉として使われました。この言葉は健全者に近付けば悩みがなくなるとか、健全者の方がより良い存在であるという考え方、あるいはそうした幻想に障害者自身が囚われ、自らを否定してしまうことを戒める警句として使用されました。障害のある自分のままで生きていて何がいけないんだと言い切ったわけです。 いま「障害は個性」なんていう表現があったり、障害があってもそのままで良いという考え方がわりと一般的になりましたが、その水脈の一つに「健全者幻想」があると思います。 このように青い芝の会は、障害者差別と闘う言葉をつくり出していったところに大きな特徴があったと思います。だから私は文学者として、さまざまな言葉をつくり出した青い芝の会の資料を読むのが大変面白いんです。優生思想という言葉も昔からあったのですが、青い芝の会の人たちはその言葉を新しい文脈で使い、運動のなかに採り入れました。 しかしながらその後、障害者差別と闘う言葉は増えたでしょうか。例えば、2016年7月に起きた相模原障害者施設殺傷事件を機に、優生思想という言葉がメディアやSNSに頻出しました。私も事件後いくつかの取材を受け、いまも7月になるとメディアへの寄稿を求められたり、新聞やテレビの取材を受けたりします。 この事件が起きた後、個人的にショックだったのは、「優生思想はどうやったら乗り越えられるのでしょうか?」という質問を度々受けることでした。優生思想という言葉は半世紀前に障害者差別と闘うために使われた言葉です。そんな半世紀前の言葉をいまだに使っている領域があるでしょうか。言葉というのはだいたいバージョンアップされていくはずなのですが、優生思想という言葉はバージョンアップされていないんですね。 表す言葉がない 荒井 さらに広い視野で考えてみたいのですが、例えば、性差別とか性暴力とか、力の不均衡を表す言葉、あるいは見えにくい暴力や力の行使、価値観を可視化する言葉は増えています。 ここ5、6年では、性の多様性を表す言葉も増えました。いまの学生たちも、性の多様性を表す言葉に対して大変敏感です。 しかしながら、障害者差別と向き合う言葉は増えているでしょうか。私は増えていないと思います。 (校正者注:以下、講演スライド資料16頁から抜粋した説明図) ●性差別・性暴⼒・⼒の不均衡を表わす⾔葉は増えてきた(定着してきた) ①「〜ハラスメント」という⾔葉のバリエーション セクシャル〜/マタニティ〜/パワー〜/モラル〜など ②⾒えにくい「暴⼒」「⼒の⾏使」を⾔い表す⾔葉 ドメスティック・バイオレンス/デートDV/マイクロ・アグレッションなど ③⾒えにくい「価値観」を可視化する⾔葉 マチズモ/エイブリズム/ルッキズムなど (校正者注:図ここまで) 例えば、知的障害者が丁寧な説明を求め、それを断られることがある。あるいは、聴覚障害者が筆談を求め、断られる。こうしたことって、それぞれ個別に「○○ハラスメント」みたいな言い方があっても良いと思うのですが、現状、存在しません。 それから、障害者たちが社会参加を求めると、現実的には考えにくい危機感を煽られることがあります。例えば、合理的配慮の提供や差別解消法について説明した時に、「そんなに障害者に配慮すると、ここにばかり障害者が殺到するのではないか」といった不安や危機感を煽るようなことが言われます。 あるいは、ハーフやミックスと呼ばれる人たちが増えると、日本文化が衰退してしまうのではないかと言われることなどもそうです。 同性婚や夫婦別姓の話にも関わってきます。同性婚を認めたら出生率が下がって人口が減り国が滅ぶのではないか、だから認められないと言われることがあります。 現在日本では同性婚が認められていませんが、人口はすでに減っていますし、オランダでは2001年から認められていますが、オランダが滅びそうだという話は聞いたことがありません。 つまり、社会参加を阻まれている側が社会参加を求めていくと、現実的には考えにくい危機感を煽られ、ダメだと言われてしまう。こうした特有の現象にも名前はついていません。 それから、他者の社会参加のあり方を勝手に決めるという現象もあります。例えば、混み合う電車に車椅子で乗ることに対して、車椅子に乗っている人は混み合ってない時間帯を選んで乗るべきだという意見が出てきます。 でも、ある人がある時間帯の電車に乗るのは、その人がその時間に社会参加する必要があるからなわけで、本人もできれば混み合っていない時間に乗りたいはずなんです。それなのに車椅子の人は空いてる時間に乗ったら良いみたいなことが勝手に言われてしまう。こうした現象にも名前があると良いと思うのですが、いまのところはないと思います。もしかしたら、社会学や社会心理学のなかでこういう現象を表す言葉があるのかもしれませんが、私は知りません。 それから、これは障害とはまた違う文脈になるのですが、日本語を母語としない店員が日本語の不十分さを責められることがあります。コンビニや居酒屋に行くと、不十分な日本語をバカにされたり茶化されたりしている場面に遭遇することがあります。学生がそういうことを言うと、そういうの良くないよと声を掛けるのですが、「それ○○だからやめなよ」の、◯◯に該当するワードないんですよね。 村田 それは差別という言葉にくくられるでしょうね。 荒井 そうなんです。差別だからやめなよとは言える。でも差別ってものすごく大きなくくりですよね。 他にも、例えば2019年の台風19号発生時に、路上生活者が避難所に入ることを断られる事件があったんです。衝撃的でした。でも、こうした状況を言い表す言葉がないと、そもそもそれが差別かどうかから議論を始めなければならなくてすごく疲れるんです。差別だと指摘しても、言っている側は差別だと思っていない。 そうした時に、「これって◯◯だからやめてほしい」と、何か定着した言葉があれば、それを受けた側や目撃した人も指摘しやすくなるし、エンパワメントされますよね。 差別解消法もこうした文脈のなかから出てきたものだと思います。例えば、車椅子を使っている人がレストランに入りたいとなった時、店側から断られることがあった。でも差別解消法ができたことによって、「それは差別解消法違反ですよ」と簡単に言えるようになった。 すごく語弊のある言い方かもしれませんが、やはりそういうふうに一言で言えるのはとても楽ですよね。言いやすくもなるし、励まされる。 合理的配慮の射程 荒井 とはいえ私自身は、差別解消法に対して80%ぐらいは好意的に受け止めていますが、残りの20%ぐらいには懸念をもっています。 懸念点はいくつかあるのですが、その一つに、障害者差別を表す言葉が「合理的配慮の不提供」だけに画一化されてしまうのではないかということがあります。 最近の事例を紹介します。東京都が運営する婚活支援サイトのイベントで、軽度の知的障害の男性が「心身ともに健康でない」ということを理由に参加を断られたということがありました。東京新聞が8月11日に報じています。 東京新聞の記事では、この男性は働いていて所得があって、過去に女性との交際経験もあって、そろそろ結婚したいと考え勇気を出して応募したといったことが書かれています。所得や交際経験の有無は問題とすべき事柄ではないと思うので、ここではちょっと横に置きます。 知的障害のある人が婚活イベントに参加することを断わられたというのは、合理的配慮の提供の義務違反でしょうか。私には、もうちょっと根深いものが感じられます。結婚や交際といった人と人との交流に関して、知的障害のある人たちを排除するその感覚に、合理的配慮の不提供という言葉だけでは済まされないゾワゾワした何かを感じます。 そのゾワゾワしたものを、半世紀前の障害者運動家たちは優生思想という言葉で言い表そうとしたのかもしれません。一緒には生きていけない、生きていたくない、一緒に生きていくことがすごく負担になる、そういった感覚を表す言葉です。 時々、合理的配慮の提供について解説してくださいという寄稿や講演依頼が来るのですが、皆さんが気にするのは、自分たちのやっていることが差別解消法に照らして不当な差別に該当しないかどうかということです。どこからがOKでどこからがNGか、それを具体的に教えてほしいと言われます。でも難しいんです。ケースバイケースとしか言いようがないからです。 村田さんにもそうした依頼がたくさん来ると思いますが、合理的配慮についてどう話されていますか。 村田 そうですね。ここにいる皆さんも、日々、合理的配慮について悩まれていると思います。 お話をうかがっていて改めて気が付いたのですが、合理的配慮のニーズって、別に新しいニーズではないんですよね。新しい言葉として考えがちですが、レストランに入りたいとか、働きたいとか、電車に乗りたいとか、あるいは学びたいといったことは昔からあるわけで、制度的に言い表せるようになったのがこの合理的配慮という言葉です。 先ほど荒井さんが丁寧な前置きをしながら差別解消法の登場で楽になったと言われましたが、それは確かにその通りで、そのことによって明るみになりやすくなったというだけの話で急に出てきたニーズではないということです。 この辺をきちっと押さえておかないといけないと思いながら聞いておりました。 荒井 そうですよね。急に出てきたニーズではないんですよね。昔から要求されていたことです。ただ、合理的配慮という訳語がやっぱり誤解を招きやすいと思います。私は「環境調整」という言い方をしています。 合理的配慮というと、優しくしてあげるとか丁寧に接するみたいな感じになるのですが、本来の主旨からすれば、その人がその場に参加するにあたって必要な環境を整えるということだと思うので、環境調整くらいで捉えた方が良いのではないかと思います。 環境を整えてほしいというニーズは差別解消法ができて突然出てきたものではなく、ずっと訴えられてきたことだというのは私からも改めてお伝えしたいと思います。 養護学校義務化阻止闘争 荒井 最後にお話ししたいのが、養護学校義務化についてです。特別支援学校はかつて養護学校と言われていて、義務化が始まったのが1979年度でした。根底には、就学猶予や就学免除の問題がありました。 かつては重い障害のある子どもたちが、就学免除ということで義務教育さえ受けられなかった時代がありました。それを何とかしなければいけないというのが養護学校義務化の根底にあります。 いまも就学猶予や就学免除の規定は残っています。何のためにあるのかちょっと疑問に思うところもあるのですが、今日は深入りしないでおきます。 70〜80年代の障害者の運動家のなかには、就学猶予や就学免除をものすごく恨んでいる人たちがいました。先ほどの横田弘さんなんかは、ご自身の著書の裏表紙が自身の就学免除通知になっているんです。ものすごい恨みを感じますね。 この時期、養護学校義務化をめぐって、賛成派と反対派との間で激しい議論になりました。 養護学校義務化に賛成した人たちの多くは「発達保障」という言葉をキーワードにしました。どんなに障害の重い子でも発達はするんだと。その子の発達をサポートすることが人権を保障することなんだと訴えました。その子の障害に合った専門的で科学的な教育を行う必要があるから養護学校が必要だという主旨です。 先ほどからご紹介している青い芝の会は反対派の急先鋒といった存在で、障害のある子も地域の学校に通うべきだと主張しました。養護学校に行くとなると障害のある子だけ、きょうだいや友だちとは違う学校に行くことになるわけです。そうすると地域のなかに友だちがいなくなり、人間関係がなくなってしまう。それは地域からの隔離、障害児の排除なんだと訴えました。青い芝の会に限らず、養護学校に反対する人たちの間でよく使われたのが「共生共育」という言葉でした。 障害のある人ほど地域社会と関わりながら、人々にサポートをお願いしながら生きていかなければならないはずなんですよね。養護学校はそうした人々のネットワークから障害者を切り離してしまいかねない、というわけです。 ちなみに、養護学校義務化の論争は、心理学や精神医学も巻き込んで大きな議論になりました。障害のある子を分けるとなると、分けるための尺度をつくることになります。その尺度は、誰かを排除することにつながるのではないか。心理学や精神医学が、子どもの排除に関わるようなスケールをつくって良いのかということがかなり真剣に議論されました。 この頃、養護学校に行きなさいと言われた障害のある人が、教育委員会の制止を振り切って地元の学校に通う、「自主登校」という闘争をやっていました。東京都で有名だったのが金井康治さんという方です。脳性マヒの方で、高校まで進学しました。 彼は高校受験の時に、試験時間延長の配慮を受けています。障害のある人の入試における時間延長の配慮はこの頃から始まっていたんですね。背景にあったのは帰国子女の人たちの試験制度だったようですね。 今日はあまり詳しいお話はできませんが、養護学校義務化論争は、現在のインクルーシブ教育を考える上でも大変大きな問いを投げかけていると思います。障害のある子と障害のない子を分けることにどれほど意味があるのか、誰が分けることを望んでいるのかという問題です。それから、障害のない子は障害のある子を知らないまま社会の担い手になっていく、ということで本当に良いのかという議論もありました。 学校の役割とは何か。教育とは何か。当時の養護学校をめぐる議論は、こうした根源的な問いを含んでいるように思います。 時間の都合で私からの報告はこれまでとさせていただきますが、最後に参考文献を紹介します。 ⼩国喜弘編『障害児の共⽣共育運動――養護学校義務化反対をめぐる教育思想』(東京⼤学出版会、2019)という、障害児の共生共育運動について書かれた大変優れた研究書があり、全体像を把握するにはすばらしい本かと思います。 最後は駆け足になりましたが、ご清聴ありがとうございます。 村田 最後に、今回なぜ荒井さんをお呼びしてこの話を届けていただきたかったかということを話します。 昨今、障害者の権利条約に始まり、差別解消法ができて第二次まとめや第三次まとめなど、制度的な規範がたくさんできつつあります。今年度は合理的配慮の法的義務化が全面に広がるということで、それが一番のトピックかのように話されます。 もちろん大学やわれわれがその規範の実効性の確保に向けて努力していくことは必要なことですが、それは目指すべき姿というより、大前提の話でしかないということです。非常にライトな言い換えをすれば、信号を守りましょうと言っているだけのことです。大事なことは、信号を守ることだけにわれわれの思考を閉じてしまって良いのか?ということです。 荒井さんが「水脈」という言葉を使われたのは、本当に秀逸だと思いました。もしかしたらわれわれは、水脈といっても、水道の蛇口から出てくるところぐらいからしか考えられていないのかもしれません。ほんとうは水道から出てくるまでに、雨が降って地下水となり、川や湖となってそれらが浄水され、水道管を通って運ばれてくるという歴史があるわけです。今日のお話は、われわれが「蛇口をひねったら出てくる水」としか捉えていないのではないかということへの警鐘ですよね。 多くの研修やシンポジウムでは、障害の定義や日本で障害学生が増えてきたというところから話し始めることが多いのですが、それらがもし仮にエピソード1だとするならば、今日のお話はエピソード0にあたります。あえてこのタイミングでお話しいただいたのは、今後このエピソードが、2、3、4とどんどん拡充していくと思うからです。一度振り返って、エピソード0というものが先にあったのだということを押さえながら、今後、差別解消法や合理的配慮とは何かということを考えていきたいと思います。本当に示唆に富むお話をお届けいただき、ありがとうございました。 参考書籍 杉本章『障害者はどう生きてきたか』増補改訂版(現代書館、2008) 戦後の障害者運動史の概説として大変参考になる1冊。年表も詳細で有益。 横田弘『障害者殺しの思想』初版(JCA出版、1979)増補新装版(現代書館、2015) 横塚晃一『母よ!殺すな』初版(すずさわ書店、1975)増補新装版(生活書院、2007) 花田春兆『いくつになったら歩けるの』初版(ミネルヴァ書房、1974)(日本図書センター、2004) 荒井裕樹『差別されてる自覚はあるか』(現代書館、2017) 小国喜弘編『障害児の共生教育運動ー養護学校義務化反対をめぐる教育思想』(東京大学出版会、2019) 登壇者プロフィール 荒井裕樹(あらいゆうき) 二松学舎大学文学部教授。専攻は、障害者文化論、日本近現代文学。著書に、『障害と文学「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)、『生きていく絵 アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『障害者差別を問いなおす』(筑摩書房)、『車椅子の横に立つ人 障害から見つめる「生きにくさ」』(青土社)、『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)、『凜として灯る』(現代書館)などがある。第15回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞受賞。 村田淳(むらたじゅん) 京都大学学生総合支援機構准教授/障害学生支援部門(DRC)チーフコーディネーター、高等教育アクセシビリティプラットフォーム(HEAP)ディレクター